沖正弘先生について

沖正弘先生について

沖正弘先生

沖正弘。1919年生まれ。出生届の関係で、戸籍上は1921年11年8日生まれ。大阪外語大学卒。生来、壮健ではなく、幼少の頃より多くの病をかかえ、後のヨガ実践行にて、自他の生命が共に救われる沖ヨガ(沖道)を創造し、世界20カ国以上に沖ヨガ普及活動を展開した。
青年時、軍の特務機関員として、蒙古・中国・インド・アラビアに赴き、東西の医療法を修得。宗教面でもイスラム教、ラマ教、道教、仏教、キリスト教の寺院や修道院での修行体験を持つ。1942年にガンジーとの出会いもあり、日本で最初のヨガ研修会を創立した。

戦後は、平和活動家を志して禅門にも入り、北陸を拠点に全国で人間性回復、救済活動と修行に努めた。また、フィリピン政府に戦犯の身代わり投獄を申し出るも受け入れられず、1951年にユネスコの平和建設国際奉仕団の日本代表として、渡印。医療面や福祉活動面で活動。印パ紛争時に平和説法、難民小屋や救ライ施設の建設にも携わり、大学での講義も行った。シャカ・ガンジーを悟りに導いた行法と哲学がヨガであることを知ってから、まず哲学のさらなる探究に、次に腸がんの診断を受けるに及んで、心身改造の目的で、行法も徹底専心するに至った。1955年に帰国。全国でヨガ活動を開始。報恩奉仕の心の普及に、自ら世界各国を廻り歩き、また多数の若者を海外への奉仕に送り出した。1958年には日本ヨガ協会、ヨガ行法哲学研修会を設置した。1960年以降は、招かれて西欧各地に東洋哲学と医学の講義に赴いた。
誤解を生みだしている健康法的、美容法的、また部分的、習い事的な他のヨガとの区別の為、自らの研修したヨガを求道ヨガ(別名=沖ヨガ)と命名して、1967年、その修道場を三島市澤地に設置した。その後、1970年代には、下田市にも研修所を設置した。

沖ヨガの特質は、ヨガを近代的かつ総合的に解釈していること、及びヨガ・禅・陰陽哲学、東洋医療法と修行法を総合化したユニークなシステムであることで、その中心となっているのが、冥想行法と修正行法である。また、「生命即神」の真理を柱に、自然法則・生命法則を探求修得し・心身生活の全般に活かす観点から、政治、教育、医療、宗教、スポーツ、芸道など各界の指導も行った。

晩年には「全生命は救われなければならない、また必ず救われる」との悟りと信心から、全生命救済活動の一環として、1980年には国際総合ヨガ世界大会を開催し、国内外からのべ8000人が参加した。また1984年には国際セミナー「ライフエンカウンター(生命との出会い)」を開催し、世界20カ国からの参加者を得て、国際的に指導者を養成した。
1985年7月25日、この年のヨーロッパ・サマーキャンプ(スウェーデン、ベルギー、フランス、イタリア各国での夏期講習会)を終えた日に、イタリア、ペザロ市のアドリア海で、入定した。

著書に「冥想ヨガ入門」、「実践冥想ヨガ」、「ヨガのすすめ」、「ヨガ呼吸修正法」、「ヨガによる健康の秘訣」「ヨガによる病気の治し方」等(日貿出版社)、「ヨガ総合健康法」「なぜヨガで病気が治るか」「菩薩道入門」など(竹井出版)、「ヨガの喜び」(光文社)など多数。

沖正弘先生の歴史

大正8年1919年

併合下の韓国扶余の日本官舎で早産で出生(実際はこの時の1月)

世界年表 第一次世界大戦終結
大正10年11月8日 1921年

戸籍上誕生日(韓国扶余ぷよ市)特務任務の為、戸籍を操作し復帰時にこの日なった。

昭和8年 1933年 12歳(14歳)

生家に来たビルマ建国の父・オッタマ僧正より、ヨガの名をはじめて聞く。この時、はじめてヨガに関する小冊子を読む。

世界年表  国際連盟脱退
昭和9年 1934年 13歳(15歳)

韓国・紅景商業に入学。(日本人と韓国人が平等に学ぶ学校)

世界年表  満州国帝政実施
昭和10年 1937年 16歳(18歳)

父、逝去。父の友人の紹介で、東京市ヶ谷の参謀本部所属特務機関員養成所に入所

昭和13年 1938年 17歳(19歳)

卒業後、東京に出て、日比谷講演での首相演説会で、演壇に「異議あり!」として飛び込み、若林半先生のもとにあずけられる。再度特務機関に入所。特務機関で中村天風師にヨガの素晴らしさを学ぶ。第1回蒙古渡航。ラマ寺でチベット仏教修行。

昭和14年 1939年 18歳(20歳)

2回目の任務でアラビア・中央アジアに赴く。イスラム教徒の現状調査が任務。まず、ビルマによりオッタマ僧正に紹介状をもらい、インドに渡り、ワルダのガンジーアシュラムに滞在。ガンジー師の指導を受ける。その後、アラビア。中央アジアに赴いた。イランで捕らわれ、牢獄に入るも、運よくホセイニ―師の仲間に助けられ、出獄。日本に帰国。「冥想ヨガ入門」(ホセイニ師)に詳述。

世界年表 ノモンハン事件勃発
昭和15年 1940年 19歳(22歳)

4月、東京・善林学校入学。(内蒙古の文化工作の為に善隣協会が設立した学校)夏、アラビアに向けて出発。任務終了後帰国。

世界年表  日独伊三国同盟
昭和16年 1941年 20歳(22歳)

4月、特務機関の命でアラビア語修得の為、大阪外語大学入学 この時天風会に、大阪で入会。

世界年表  太平洋戦争
昭和17年 1942年 21歳(23歳)

インドでのヨガ体験の実際を知りたい人が出てきて、最初のヨガ研修会創立。陸海軍の将軍等にヨガを説く。

世界年表  翼賛選挙
昭和18年 1943年 22歳(24歳)

9月、大阪外国語大学卒業(その後、再度インド・アラビア)

世界年表  学徒出陣
昭和19年 1944年 23歳(25歳)

天風会・夏期練成会に参加。

昭和20年 1945年 24歳(26歳)

鈴木貫太郎首相の随員として、三島・龍澤寺の山本玄峰老師に会う。この時、鈴木首相は玄峰師か ら終戦の助言受けた。9月、韓国より中村家と共に引き揚げ福井県大野に。10月再度、韓国に渡航。

世界年表  敗戦
昭和21年 1946年 25歳(27歳)

4月10日戦後の 第1回総選挙に福田一氏(福井県)の選挙運動を手伝う。

世界年表 日本国憲法公布
昭和22年 1947年 26歳(28歳)

大野にて浦田清子さんと結婚。26年インド出発まで、永平寺・日本山妙法寺・明鳥敏・但見の修道院・一灯園などで求道修行。

世界年表 片山内閣
昭和23年 1948年 27歳(29歳)

ご長男、 浦田光寿氏生まれる。

世界年表  極東裁判判決
昭和24年 1949年 28歳(30歳)

24年迄、福井県大野市が拠点、ヨガ指導や難病治病。フィリピン政府に戦犯身代わりとして入獄を希望するも、受け入れられず。

世界年表  湯川秀樹 ノーベル賞受賞
昭和26~30年 1951年 30歳(32歳)

できたばかりの日本ユネスコから、平和建設国際奉仕団としてインドに派遣される。神戸港から出発。 このユネスコ所属期間中に、ワルダのライ病院を建設等の労働に従事。インド、パキスタン紛争の最中に説法及び難民救済施設を自ら建設。既に亡き後のガンジーアシュラムを訪問。講師も依頼される。インド・オリッサ州文部省教育顧問となる。体調不良を感じて、病理検査の為にドイツに行き、昭和28年にミュンヘン大学で大腸癌の宣告を受け、再度インドに戻る。ユネスコの奉仕作業の合間にヨガ塾やヨガ研究所等訪問。シバナンダアシュラム、ロナワラ、カイバリヤーダマ、他6人のヨガ師匠に学ぶ。個人のヨガ行者・ヨガ師にも20名以上学ぶ。ネパールのヨガ道場でも修行。

世界年表  平和条約調印
昭和30年 1955年 34歳(36歳)

昭和30年の暮れにインドより帰国(神戸港)。インド滞在中に桜沢如一氏に会ったご縁で日本CIの全身であるMIの道場長となる。

世界年表  保守合同
昭和31年 1956年 35歳(37歳)

3月神戸の王子神社や六甲山でヨガ講習会。東京で手のひら療治や玄米食関係者とくらしの道社から月刊誌発刊準備。事務局長小林弘昌氏。

世界年表  日ソ国交回復
昭和32年 1957年 36歳(38歳)

1月「生活の道」創刊「自由人への道」の原稿掲載。本誌にて「日本人奉仕団の趣旨と機構」を発表し募集開始。霞が関書房の岡本正人氏、大塚に沖導師を訪問。インドラデヴィー女史の講演会で行法の指導.。この時、NASAと根本龍太郎氏に御縁ができる。大沢愛子さん、4月にヨガ講習会場の旅館・鴬谷「黎明館」を訪れる。

世界年表  スプートニク打ち上げ
昭和33年 1958年 37歳(39歳)

大沢愛子さんと結婚。

昭和34年 1959年 38歳(40歳)

ヨガ行法哲学刊行部東京西巣鴨・大塚マンションに設置1月1日月刊「ヨガ」第1号発刊。ヨガ誌発刊の喜びと祈りの文章。横浜増徳院でのヨガ活動を開始。11月、社団法人日本ヨガ協会設立準備会。ほぼ同時に設立。

世界年表  明仁皇太子 ご成婚
昭和35年 1960年 39歳(41歳)

2月「人間回復」(最初期版「ヨガ」より改題)5月 通信講座・2号よりヨガ問答となる。霞が関書房より「ヨガの行法と哲学」発刊。インドへ産経新聞特派員として赴く(愛子さん・藤井氏と共に)。秋より、山本鎮子さん提供下北沢道場で活動を開始。

昭和36年 1961年 40際(42歳)

7月、サチナンダ師来日 12月月刊ヨガ大判発刊。米子市で講習。

世界年表  ガガーリン宇宙へ
昭和37年 1962年 41歳(43歳)

カッパブックス 「ヨガの楽園」光文社発刊。11月シバナンダ道場カラ。、スリ・シバリンガム師来日。

世界年表  キューバ危機
昭和38年 1963年 42歳(44歳)

九電病院で指導。北沢ヨガ健康寮、ヨガ研究所を新大久保に開設。インド・サルボダヤ運動に池田運氏を派遣。12月より、「ヨガ」小型版となる。大江健三郎氏と対談。(のちにヨガ叢書第1巻ヨガに生きるに収録)

世界年表  ケネディー暗殺
昭和39年 1964年 43歳(45歳)

解脱会健康指導部設立の指導。求道会修行道場設立趣意書発行。横浜・増徳院にヨガ道場落成。愛子さんと共に、ハワイ、サンフランシスコサクラメント、ロスアンゼルス(解脱会関係)で活動。導師はヨーロッパを回り、帰国。「ヨガによる病気の治し方」発刊(白揚社)。「ヨガ・体操と呼吸の哲学」発刊。

世界年表  友永振一郎ノーベル賞
昭和41年 1966年 45歳(47歳)

2月15日、母逝去65歳。3月に帰国。増徳院に戻リ、奈良正暦寺へ移動その後、一時下田にいて、冬期講習より三島市の大伊豆旅館にて講習(第一道場)。

世界年表  中国文化大革命
昭和42年 1967年 46歳(48歳)

1月より、三島市川原ケ谷・愛宕道場の工事開始。三島市澤地777に第二道場設置。

昭和43年 1968年 47歳(49歳)

三島市澤地450-1に道場工事開始。第1道場=大伊豆旅館、、第二道場=澤地777。第三道場=愛宕。秋、読売ランドで札幌五輪アルペン指導。

昭和44年 1969年 48歳(50歳)

4月17日宗教法人として認可される。宗教法人:求道実行会密教ヨガ修道場となる(三島市澤地450-1)「真の医療道・体育道の提唱」発刊。

世界年表  アポロ11号、月へ
昭和45年 1970年 49歳(51歳)

1月号月刊「ヨガ」から「求道実行」に変更 「ヨガ叢書」全5巻発刊(霞がっ関書房)。 習志野自衛隊指導。

世界年表 大阪万博開催
昭和46年 1971年 50歳(52歳)

日貿出版社から 「ヨガのすすめ」発刊。(英文が先)。立正佼成会・庭野日敬会長と対談。西鉄ライオンズを指導。国際ヨガ美療学会の発会。

昭和47年 1972年 51歳(53歳)

山田無文老子と対談。韓国にて、「世界平和の道」の対談。

世界年表 札幌冬季五輪
昭和48年 1973年 52歳(54歳)

東京青山連絡書開所。ブラジル・ヨガ大会に招待を受ける。

昭和49年 1974年 53歳(55歳)

東京と名古屋で朝日カルチャー沖ヨガクラス開設。映画「生きている」撮影開始。12月、アフリカでサファリをする。

昭和50年 1975年 54歳(56歳)

田中角栄氏の指導。愛宕道場火災で焼失。三島・沢地道場改築。「冥想ヨガ入門」発刊。11月、第1回沖ヨガフェスティバルを開催。

昭和51年 1976年 55歳(57歳)

下田道場完成:第1回シャカ・ジナ開催。スルガ平地鎮祭映画「生きている」完成(制作者:野田克彦)。「ヨガ総合健康法」(地産)発刊。下北沢第1回指導者養成講習会を開催。インド・パンチャギーニヨガ大会に招待を受け40名で参加。第1回ヨーロッパサマーキャンプ。

昭和52年 1977年 56歳(58歳)

沢地道場新改築。「なぜヨガで病気が治るのか」発刊。横須賀カルチャーセンター開所。東宮御所で指導。

昭和53年 1978年 57歳(59歳)

「実践冥想ヨガ」発刊。「ヨガによる生きる喜びの発見」発刊。「ヨガ修正法」発刊。土佐堀道場、名古屋冥想道場設置。

昭和54年 1979年 58歳(60歳)

中曽根康弘氏指導。「ヨガの喜び」(光文社)「生きている教育」〈地産出版〉 発刊。日本国際総合ヨガ協会発足。

昭和55年 1980年 59歳(61歳)

第1回国際総合ヨガ世界大会を開催。全世界より8千人が参加。京都・名古屋・東京・三島の4会場にて開催。「菩薩道入門」「真のヨガ」発刊。

世界年表 イラン・イラク戦争
昭和56年 1981年 60歳(62歳)

求道実行会・沖ヨガ捧愛団・沖ヨガファミリーシステムの「3つの会」を提唱。長浜ヨガ研修所開設。アイアンガー導師セミナーを開催。

昭和57年 1982年 61歳(63歳)

1月、聖愛者宣言。ジャイナ教(ラドヌーン)のテーラパンタ派(長老派)での国際大会に招待され講演。

昭和58年 1983年 63歳(65歳)

下田沖ヨガ研修所(真智聖愛会館)にて「宗教の原点に遡るセミナー」を開催。ナットマル・タチヤ博士(ジャイナ教&、ナーランダ佛教)、駒澤大学水野弘博士の講演。

昭和59年 1984年 64歳(66歳)

第1回ライフエンカウンターセミナー。全世界より20カ国、180名が参加。

昭和60年 1985年 64歳(66歳)

7月5日、真智聖愛集団立教宣言。7月25日午前10時、ペサロ市のアドリア海にて入定。「生きている宗教の発見」9月に発刊。密葬・本葬(葬儀委員長・根本龍太郎氏)